2022年7月

ファリサイ派とサドカイ派のパン種とは?


弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。 そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。 

マルコ8・14-15 新共同訳

 

810節で、イエス様はダルマヌク地方に船でいかれます。ダルマヌクとは、ガリラヤ湖の西側にあった、マグダラの地域をさす言葉として考えられています。それは写本の中でマグダラと書かれている写本があり、その近辺をさす地方として考えられています。イエス様たちは、731節にデカポリス地方を通りぬけ、ガリラヤ湖へやってきたと書かれています。デカポリス地方は、ガリラヤ湖の東側の地域をさしますので、4000人と食事をされたのは、ガリラヤ湖の東側のデカポリス地方であると思います。今日の福音書のお話は、イエス様は弟子たちと船にのり、西側のマグダラの地域へと向かっている船の中の出来事です。弟子たちは、イエス様からパン種ときいたので、パンを1個しか持ってこなかったことを注意されと勘違いしてしまいました。しかしイエス様は「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められたのであり、パンを忘れたことを注意したわけではありませんでした。弟子たちは先入観をもってしまったのです。しかしこれは、私たち生活のそばにもあることだと思います。「クリスチャンになったら、いつも正しくなければならない」という先入観があるとします。しかし、聖書の1テモテ115節には「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られたという言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。」という言葉があります。イエス様は罪人を招き、私たちをゆるすためにこられました。もちろん誠実に生きようと思うことは大切ですが、その先入観にしばられてしまうとき、今日のイエスの弟子たちのように、イエス様の言っていることとは逆のことを考えてしまうことがあると思います。人はどんなに誠実に生きようと思っても、完璧に間違いなく生活することはできないと思います。神さまは罪びとをゆるすためにこられました。キリスト教信仰の広がりを、ローマ帝国の迫害とめることはできませんでした。しかし、内部から生まれる偽りの教えは、ち小さいところから徐々に広がって感染してゆきます。

イエスさまは、その偽りの教えの怖さをパン種にたとえて言われたのだと思います。それでは、ファリサイ派のパン種とはなんでしょうか。

 

ファリサイという意味は、分離する、という意味があります。それは汚れた者とは距離をおき、清い存在になることを目指していました。ファリサイ派とは聖職者ではなく、農民や商人や職人芸など、さまざまな立場の方がいました。ファリサイ派は、文書にされたモーセの律法のほかに、先祖から伝わってきた律法解釈も重視していました。当時は、律法の戒めには613もの戒めがありました。それだけのものを覚えることはできないので、律法を解釈する専門家がいたのです。イエス様は、その当時汚れた存在とされていた重い皮膚病にふれました。レビ記1346節には、「この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」と書かれています。イエス様は、重い皮膚病の方に「深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われた」と、マルコ141節に記されています。イエス様にとっては、一人一人は律法で汚れた存在とされていても、神様に愛されている大切な存在とされました。イエス様にとって大切なのは、組織よりも、伝統的な教えよりも、一人ひとりの存在であり、命でした。ファリサイ派の人たちは、もちろん、正しく生きたいという願いはあったと思います。しかし、それがあだとなって、自分に厳しくなり他人にも厳しくなり、汚れたものや律法を守られない人を罪人と定めていたのです。安息日に誰かが病で痛んでも、ファリサイ派の人は「安息日にはなにもしてはならない」という律法をそのまま解釈し、困っている人を放置していました。神さまを愛することに熱心になり、人を愛することや、憐れみやゆるしの心を忘れてしまったのです。マルコによる福音書10章には、「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。・・・」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」と書かれています。イエスは、律法もろくに理解せず、まだ小さ存在であった子供たちに、神の国はこのような者たちのものだ、と言われました。イエス様にとっては、何ができるか、何を達成したかで私たちの価値は判断されません。ただ神様に愛された存在として、どんなに弱く小さい存在であったとしても、限りなく尊い存在とされているのです。神様は、私たちがたとえ失敗しようとも、失敗さえも成長する力を与えてくださり、新しくやり直す力を与えてくださる用る方です。

 

イエス様は、ヘロデのパン種にも気を付けなさいといいます。マタイによる福音書の平行箇所では、ヘロデではなく、サドカイ派と書かれていますが、サドカイ派はエルサレム神殿を中心にし、宗教権力をにぎっていましたから、権力のあったヘロデと変わらないと思います。ヘロデは、ローマ帝国から認められガリラヤ地方の領主をしていました。イエス様の生誕のときのヘロデ大王ではなく、その息子であるヘロデ・アンティパスのことをさすと思います。洗礼者ヨハネを殺めたのもヘロデ・アンティパスです。ローマ帝国の顔色をうかがい、権力こそ正義でした。ヘロデのパン種は、自分の力に頼るということです。詩編4611節では「力を捨てよ、知れ わたしは神。」とあります。神さまは、私たちに力を捨てよ、といいます。力を捨てることは怠けることではないか、と勘違いしてしまいますが、それは神さまを信頼することにつながると思います。たとえ自分の思いどおりにならなくても、「これも神さまが与えてくれた素敵な道」と感謝できるのは、神さまを信頼しているからだと思います。ヘロデのパン種とは、この社会にどっぷりつかって、この世のみに信頼をおくパン種だと思います。


洗礼者ヨハネ

洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

マルコ1・4-8 新共同訳

 

1、洗礼者ヨハネ

ヨハネは、荒れ野での厳しい生活を通して、自分自身の弱さや限界をよく知っていたことでしょう。ヨハネは、神によらなければ何もできないことを知り、神様に委ねる生活をしていました。そんな彼を神様は、イエスへまっすぐ道を導き、準備させる者として、用いました。洗礼者ヨハネの使命は、主の道を整え、その道筋をまっすぐにすること。ヨハネを通して、多くの人が悔い改め、生活と生き方を見直したのでしょう。

 

2、罪の赦し

 マルコによる福音書1章では、「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」とあります。悔い改めとは、向きを変えること。今まで自分の考えを中心にしていたことから、神様のみ心に耳をすますことです。人はつい、自分の自分の固定観念をこだわりがちです。しかし、「自分は神様に赦されるはずはない」「私は誰からも愛されない」と耳をふさいでいたら、いつまでもイエスの声は聞こえてきません。また、世の中のために何か役に立っていなければ、人から評価されなければ、自分には価値がないと考えてしまうことがあります。神様のことを忘れるとき、地上のことしか見えなくなって、地上の尺度だけで自分の価値を測らざるをえなくなるのです。ですが、神様の目から見たときには、その命が何かの役に立っているかどうかなどまったく関係がありません。一つひとつの命が、精いっぱいに生きているというだけで限りなく尊く、価値があるのです。朝ごとに、夕ごとに、神様から愛されている喜びをしっかりかみしめてよいのです。社会での競争や人間関係のトラブルで苦しんでいるわたしたちに、イエスは「たとえ何が起こっても、あなたは大切な神様の子ども。かけがえのない命。あなたは大切な存在」と語りかけてくださる方。悔い改めは罪の赦しをもたらします。どんな罪でも、へりくだり神様の声に聞き従うとき、どんな失敗を犯しても、新しくやり直す力が与えられます。それは、一度だけではありません。7の77倍他人の罪を赦しなさい、どこまでも赦しなさいとイエスは弟子に教えたように、私たちの罪も、繰り返し赦してくださるのです。人は完璧に生きたくても限界があります。欠点や弱さがあります。欠点があるからといって、それでおしまいではありません。神様は欠点や弱さすらも、恵みに変えてくださる方。パウロはおそらく病を抱えていたといわれます。自分の病がなくなったら、もっと強く、効率的に、優秀に福音宣教できると思っていたのでしょう。そんなパウロに向かって、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と神様の声を聞いたと、第二コリント12章9節でパウロはいいます。パウロは、神様に作られた自分を、否定するのではなく、神様に愛された十分な存在として、自分を見つめ直したのです。

 

3、自分の役割

また、洗礼者ヨハネは、自分の役割を認識していました。ヨハネ福音書1章で、洗礼者ヨハネは「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」と言います。自分は救い主でないばかりか、自分の役割を認識していました。ヨハネは、「あれもしなければならない、これもしなければならない」と背伸びしていません。自分に与えられた役割をしっかり認識し、自分がするべき神の使命を精一杯していました。

私たちも、一人一人神様から与えられた使命は違います。違うからといって、「あの人は、あんなこともできない」「自分はこれもできない」と卑下する必要はないのです。他人と比べて、自分はあの人より強いとか、弱いとか決める時間はもったいないことです。神様が作られた私たちに、優劣は存在しないのです。ただ一人ひとり、出来ることが違うだけ、神様から与えられた役割が違うだけです。神様から自分に与えられた役割を精いっぱいに生きている人は、誰もが最高に輝いているのです。洗礼者ヨハネは、荒れ野で生活していたので、持っていたものは最小限だったことでしょう。しかし、神様に与えられたものを喜び、満足していました。厳しい荒れ野の中でも、ヨハネの心は神の愛で満たされていたことでしょう。立派な教会堂や祈りの場所でなくても、私たちの当たり前の日常生活で神様は出会ってくださるのです。あちこちに神様を探す必要はありません。神様はすぐそばにいて、私たちの道を準備してくださる方。私たちは、この場所で祈り、神様に赦され、新しくはじめることができるのです。世界の果てまで冒険する必要はないのです。今の場所で、神様は私たちを愛してくださり、必要としてくださるのです。

 

4、イエスと洗礼者ヨハネの違い

洗礼者ヨハネは、しかし、イエスと考え方が違うことがありました。それは、ヨハネは神の国の裁きを強調しました。マタイによる福音書3章で、ヨハネは「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」といいます。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」とも言い、神に救われるために悔い改め、悔い改めにふさわしい実を結ぶことが期待されています。それに対し、イエスは神の国が到来し、愛で支配するのを強調しました。イエスにとって、神様は裁き主ではありますが、同時に天のお父さんであり、私たち人は神様の子供でした。そのためイエスは弟子たちに教えた祈りで、天のお父さんと、よびかけるように教えました。イエスにとって、放蕩息子のたとえで示されているように、過ちを犯しても悔い改め父に帰るとき、罪を裁くまま終わるのではなく、罪を赦し、憐れんでくださる方でした。私たちは、いまイエスによって福音を知りました。洗礼者ヨハネは神様の前で理想的な正しい人間を期待していました。そこには、やはり、洗礼者ヨハネの限界があったと思います。イエスは、「理想のわたし」になることができない罪人や、病気や職業によって差別されている人にも、神様の愛が支配していることを宣教しました。理想な自分になれない自分や他者を責め続ける必要はなくなったのです。神さまは、わたしが思い描く『理想のわたし』を愛して下さるのではありません。神様は、あなたがあなたであることを赦してくださり、神様の使命のために用いてくださるのです。