2022年8月


子供たちと大人たち

イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

マルコ13:13-16 新共同訳

 

1、子供たち

人々は子供たちをイエス様に触れてほしく、つれてきましたが、弟子たちは叱りました。弟子たちは、イエス様が子供たちを相手にしている時間はないと思ったのでしょう。イエス様は、福音宣教に忙しく、病人を癒し、たくさんの使命があるのだから、子供は二の次と思ったのです。ところがイエスは弟子たちの行動に対して憤りました。憤ったとは、マタイやルカは書いていません。しかし、最初に書かれたとされるマルコ福音書は憤ったイエス様を正直に書きました。感情が爆発した憤ったイエスを書くのです。弟子たちに、こんなことがあってはならない、絶対にあってはならないと伝えるためだったと思います。

イエス様は「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」と言われました。

イエスの生きていた時代子供は数にもカウントされず、劣る存在としてみなされていたかもしれません。旧約聖書での子供の理解も創世記8章21説に「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」と書かれていて、子供のころから悪にそまっているといいます。申命記1章39節では、「子供は善悪をわきまえない」と書かれています。現実的にも子供は誰かに助けてもらわないと生きてゆけない存在でした。しかし大人を信頼し、親の愛を疑いなく信頼します。何の疑いも抱かない幼い子供のような心で、神さまの愛を信頼するものになりなさい、とイエスは言っているのです。私たちの誰もが、神様の愛を信頼するなら、神様の国で生きている、神様の子供なのです。ルカ福音書だけは、この同じ記事を書くとき、子どもではなく乳飲み子という言葉を使っています。ルカ福音書で5回この言葉が使われていますが、ルカ2章16節では羊飼いたちが礼拝にきて「飼い葉桶に寝ている乳飲み子を探し当てた」の箇所で使用されています。乳飲み子は、うまれてまもなく、まさに全てを親に任せて世話をされ、愛されないと生きてゆけないと思いますしかし親を信頼して、抱きついています。全くゆだねきっている姿が、ここにあります。神様に対してこのようであれ、とイエス様は言うのです。

大人になるにつれて、神様に愛されるためにふさわしい者にならなければならないと、誤解してしまいがちです。弟子たちも心のどこかで、しっかりしていなければならない、ノンキなことをしてる時間などなく、イエス様の弟子としてきっちり使命を果たさなければ、と思っていたのでしょう。そのため、イエス様と子どもたちの間にはいって、壁になってしまったのです。適格に効率よくするためには、子供とかまっている時間などいらないと考えていたのでしょう。子供と触れあっている時間があったら、たくさんの人を癒せるし、福音を宣教できるかもしれません。ところが、イエス様は小さな子供たちのまえで足をとめました。子供は、おそらく親につれられてきたのでしょうか。そんな子供をイエスは喜ばれ、抱き上げて祝福されました。「祝福」というギリシャ語には、「よいことを話す」という意味もあります。イエス様は子どもたちひとりひとりに、神さまが愛しておられること、あなたは大切な存在で神さまに必要とされていることなども、話したとかもしれません。祝福という言葉の中に、イエス様の暖かい愛がつまっているように思います。

イエス様の前で、まったく無力であるにもかかわらず、神の国はこのような者たちのものだ、といわれたのです。それを聞いた周りの人々や弟子たちは驚いたことでしょう。また、神の国の国は「支配」という意味もあります。死んでから行くところではなく、神の御心が支配しているところ、とも解釈できます。子供のように神さまの愛を疑わないで受け入れるとき、そこに神さまの祝福があり、神の国は実現するのです。「私は神様に愛されている」と子どものように疑うことなく、確信してよいと思います。

 

2、大人

子どもに対して大人は、自分の力にたよりがちです。マルコは、この記事のあとに、17節から金持ちの男の記事を書きます。この人は律法を子供のころから守っていました。自分の力でやりとげてきたのです。そして財産がありました。どこかで、自分の力で生きてゆけるという誇りがあったのでしょう。そんな金持ちの男に、財産はわかちあうものだとイエスはいいました。金持ちの男は気をおとし悲しみながら立ち去ってゆきます。イエス様は財産を全てすてることは願っていなかったと思います。神さまより、財産に頼っていたことを批判されたと思います。イエ様は、どんなに物が溢れていても、隣人と分かち合わないかぎり、幸せになれないことを知っていたのです。ささやかだけれど、困っている人を放っておくのではなく、共にわかちあって歩んでゆこうとイエス様は言われました。この男ができたのは、愛のわかちあいでした。しかし金持ちの男は、自分のものを独占したかったのでしょう。この金持ちの男は誰かを愛するゆとりを失っていたのです。そして、自分の力や律法を誠実に守っていた自分に頼っていたかもしれません。

私たちの社会は、自立した人間を求めがちです。そして、神様にふさわしいのは、強く、しっかりしている人だと誤解するのです。そのために、背伸びして少しでも認められるためにあくせくしてしまうのです。イエスはわたしたちが出来ることより、生きていること自体を喜んでくださるのです。子供を抱きしめ祝福されたように、私たちも今ある姿でイエスの前にいき、「あなたと会えてよかった。生まれてきてくれてありがとう」と、私たちを喜んでくださるのです。神様の作られた等身大な自分に戻ればよいのです。命がもっとも美しく輝くのは神様に作られた自分でいることなのです。あれもこれもと複雑にしてしまえば、自分がわからなくなってしまいます。私は小さい頃から、自分の好きなものではなく、友達が好きなものを好きになっていました。自分が遊びたいことではなく、友達が遊ぶものをしていました。すると、自分の気持ちがわからなくなってしまったのです。

しかし、自分の好きなことをしっている子どもはいきいきするのではないでしょうか。そして、自分のできることや、出来ないことを知り助けあってすごしてゆけるのではないでしょうか。神さまは、私たち一人ひとりを異なる性格や個性をもつものとして作られました。自分とは違う誰かになろうとする必要はなく、神さまにつくられた自分として生きるとき、人は安心に包まれると思います。

 

3、モーセ

先ほど、大人とは自分の力に頼るといいました。旧約聖書にでてくるモーセもその一人でした。モーセは、出エジプトの旅で一人で何万人もの裁きや相談を行っていました。モーセは、朝から晩まで、そのために時間を費やしていました。モーセは無理をしていたのです。それを心配したモーセのしゅうとであるエトロは、「あなたのやり方はよくない」と出エジプト記18章17節で言っています。はっきりモーセという指導者に対していったのです。エトロは、その理由を18節で次のように言います。

あなた自身も、あなたを訪ねて来る民も、きっと疲れ果ててしまうだろう。このやり方ではあなたの荷が重すぎて、一人では負いきれないからだ。」。

エトロは、モーセ一人で、何万人もの裁きをしていたら、モーセも民たちもどちらも疲れ果ててしまうだろう、と心配したのです。そしてエトロは

あなたは、民全員の中から、神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を/選び、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長として民の上に立てなさい。平素は彼らに民を裁かせ、大きな事件があったときだけ、あなたのもとに持って来させる。小さな事件は彼ら自身で裁かせ、あなたの負担を軽くし、あなたと共に彼らに分担させなさい。」と提案します。様々な役割分担を作って、協力してする方法をエトロは提案したのです。大きな事件だけ裁きを行えばいいので、モーセはそれだけに集中できます。モーセはエトロの提案を受け入れ、その通りにしたと、出エジプト記に書かれています。モーセは自分の限界を受け入れ、助けあってゆく道を選びました。イエス様も、一人でできるはずの福音宣教を、12弟子を選び一人一人を大切にされ、助け合う道を選びました。どんなに小さな存在も、イエス様にとってはかけがえのない大切な存在でした。イエスは、弟子だけではなく、子供たちも神さまに作られた大切な一人として、大切に受け止められ、祝福されたのです。

子供を祝福されたイエス様をみた人たちは、口から口へ、このイエス様の出来事を語りついでいったのでしょう。それを聞いたマルコは、福音書を記録するときに、イエス様のしたことを記録しました。人々は、子供のなかに自分を重ねあわせました。小さく弱い存在だけれども神様はわたしたちを受け入れてくださる。その確信は、自分をつまらない存在だと落ち込んでいた人に、生きる希望を与えたでしょう。毎日、息切れをするほど走っていた人はほっと安心できる安らぎの時間をもてるようになったでしょう。イエス様は、あなたがあなたであるだけで喜んでくださる方です。それはなぜでしょうか。イザヤ書に「あなたの造り主があなたの夫となられる。」とあるように、神さまの手で愛をこめてつくられたのが、一人ひとりだからです。陶芸家は一つ一つの作品を心をこめて作ります。同じ形の作品はなく一人ひとり異なっており、みんな素晴らしい神様に愛された宝物です。この人生も、たとえ自分の思った通りにならなくても神様にゆだねていれば、受け入れることができると思います。神さまは私たちに必要なものだけを与えてくださいます。乳飲み子が安らかに親にゆだねているように、神様にすべてをゆだねて、すごしてゆけますように祈りましょう。


つまづきとは?

一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

マルコ9:33-37 新共同訳

 

1、つまずき

イエスは、小さな者をつまずかせないように、弟子たちに言います。つまずかせるとは、どのような態度や行動なのでしょう。イエスは、マルコ933節から37節の記事と、マルコ938節から41節までの、二つの記事で詳しく語られているように思います。

 

2、一番偉いもの

マルコ933節から37節では、自分が偉くなりたいという態度で、自分が威張って、小さな者を排除することでしょう。弟子たちは、だれが一番偉いか議論していました。そんな弟子たちに、イエスは子供を抱き上げ、子供を受け入れる大切さを話されました。子供はまだ、上手に一人で生活することができません。誰かの助けが必要です。誰かに優しくされ、愛されることが必要です。人はつい、自分より行動の遅い人や、弱い人をみると、苛立つ時があります。「こんなことも、一人でできないのか」と、相手を見下すのです。人を認め、受け入れる事とは逆に、相手を批判し、裁き、焦らせることがあります。大人でも、様々な病気や限界によって、精一杯やっても、うまくできない方がいます。イエスは、そんな一人一人を受け入れ、愛しなさいと弟子たちに教えたのです。

福音書をひらけば、イエスは小さな人たちや、子供たちをどのようにみていたのか、知ることができます。イエスはマタイによる福音書18章で、「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」と語り、子供たちが天の国に近い存在だと言われました。私は、幼児教育に関わったことは少ないので、子供の心や行動を詳しく知りません。しかし、人は成長するにつれ、自分が愛されるために他人と争いがちになってゆくと思われます。「私のほうこそ相手より優秀だから、愛されるんだ」と威張ってしまうのです。自慢話をしたり、人を見下したりするのは、自信があるときではなく、むしろ、そうしなければ自分に自信を持てないほど追いつめられたときです。傲慢は、自信のなさの裏返しなのです。そんな私たちに、イエスは子供のようになりなさい、と教えられました。子供のようになるとは、自分が愛されていると疑いなく信じる者でしょう。また、他の友達には他の友達の良さがあり、自分には自分の良さがあることを信じられること。一人ひとりが神様から愛された、かけがえのない存在だと確信すること。それが、子供のようになるものでしょう。

信仰生活の熱心さの上で、自分の強さや名誉、自分がどんな業績を果たしたのか、つい目がいってしまいがちです。しかしイエスは、そこにいたのか忘れてしまいそうな子供を抱き上げ、神様に創造された命に目をとめました。神様の前では、一人ひとりは決して忘れられていなく、価値ある存在。何をしたのか自慢できない子供を、そのままの姿でイエスは愛されました。イエスは、野に咲いている花を見なさい、といわれました。社会の役に立たないから、咲いている価値はないと思う人はいないでしょう。むしろ、神様に作られた命の美しさに感動するはずです。社会の役に立たなくても、精いっぱいに生きているというだけで命は限りなく尊いのです。誰からもみられない、山奥に咲いている花も、花壇の人から見やすく目立つ場所に咲いている花も、どちらも神様の目からみたら価値がある花なのです。神様に置かれた場所で、自分らしく、自分の花を咲かせて精一杯生きるだけで十分なのです。社会の価値観に従っていれば、企業や職場と同じく教会も優秀な一部の人たちだけが集まるところだと、誤解してしまうでしょう。「強くなければ、福音宣教できない」と、人間の能力や賜物だけに、頼ってしまうのです。しかし教会は福音の喜びに生かされ、福音を信ずる者の共同体。どんな人も神様に愛され、神様の子供とされていることを、喜びあう場所。たとえ何もできなくても、自分が自分であるだけで神様は受け入れてくださり、命をそのままで喜びあう場所なのです。

 

3、ヨハネの態度

マルコ938節からは、ヨハネが、自分たちと異なる集団が悪霊を追い出しているのをみて、自分たちに従わないので、やめさせたと、言っている場面です。ヨハネの問題は、自分たちに従わないものを、否定したことでしょう。人はつい、自分の意見と異なる人を否定することがあります。自分たちだけが正しく、相手は間違っていると裁いてしまうのです。ヨハネには、イエスの直弟子で、肩書きがありました。しかし、ヨハネと違う人は無名でした。それにも関わらず、イエスを愛し、イエスの名によって悪霊を追い出し、困っていた人を助けていたのです。

もしかすると、こんな私がしてよいものか、戸惑っていたかもしれません。しかし、困った人をほおっておくことができずに、自分ができることを精一杯したのでしょう。イエスはヨハネに、その人のしていることをやめさせてはならないと伝えます。信仰者でも、時に考えが異なっていたり、できることが違ったりします。神様は一人一人に異なる役割を与えているので、違ってよいのです。子育てでも、同じだと思います。子どもを愛するとは、子どもを自分の思った通りに育てることではなく、神様のみ旨のままに育てることで。自分と違うからといって、自分のコピーを相手に押し付ける必要はないのです。「あなたがあなたで良かった」と伝えること。それが、愛するということです。たとえ性格が異なっていても、神様に作られたままで、相手を尊び、愛することができるのです。自分の思い通りにすべてを動かそうとし始めるとき、わたしたちは喜びを失い、不平不満を言い始めます。この世界には、自分の思った通りにならないことが無数にあるからです。自分にとってはわけがわからないし、受け入れがたいことがあります。しかし、神様にはきっとご計画があり、神様の手に自分を委ねることができるのです。

ヨハネは、イエスの弟子という立場を利用し、自分に従わない人たちをコントロールしようとしました。自分の思った通りにならなければと思いこんでいたのです。ヨハネは、自分たち弟子たちだけが、神様に必要とされていると誤解していたのです。ヨハネは、心のどこかで、「あれもしなければ、これもしなければ」と、ゆとりを失っていたかもしれません。49節では、自分自身の内に塩を持ちなさい、とあります。塩味は、神様がつけてくれるもの。自分がしっかりしなければと焦っても塩味はつけられません。神様の前に静まり、ゆっくり休んで、祈りの中で充電することが必要なのです。しなければならない仕事がたくさんあるとき、私たちはつい、立ち止まり休むことに罪悪感を覚えてしまいがちです。ですが、誰かのために働いたとしても、人を愛するゆとりを失えば、隣人を自分のように愛するという使命を果たせなくなります。時には、神様の前に静まり、休む勇気が必要なのです。幼子のように、神様の愛を疑うことなく愛される体験が人には必要でしょう。

 

4、平和があるように

 

どんなに頑張っても、人は過ちを犯してしまうことがあります。つまずかせてしまうことがあります。人間には弱さがあり、限界があります。不完全な人間の言葉は、簡単に相手を傷つけてしまいます。それでもイエスは、子供を抱き上げ愛されたように、一人ひとりの命を大切にしてくれるのです。不完全だからといって、怯える必要はないのです。が十字架に付けられた後、弟子たちの心は平和を失っていました。なぜなら、キリストを裏切ってしまったからです。そんな弟子たちに向かってイエスは、「あなたがたに平和があるように」と呼びかけました。「あなたがたの罪はゆるされた。わたしはいつもあなたがたと共にいる。何も恐れる必要はない」、そんなイエスの思いがぎゅっと詰まった言葉。それが、「あなたがたに平和があるように」だったのです。私たちは不完全です。しかし、お互いに平和にすごす希望が残されているのです。私たちも自分と隣人に、神様の平和があるように祝福を祈り、小さき一人ひとりを愛して、この時をすごしてゆけますように。