聖書のお話し、2021年6月

光に照らされて(マタイ5・13~16)

あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

マタイによる福音書 5:13‭-‬16 新共同訳

 

1、地の塩

塩一粒は、とても小さいものです。塩は、食べ物を腐りにくくし、清める働きをもちます。また、生命を維持するためにも、塩分は不可欠です。塩はまた隠れています。ほとんど目にはみえません。地の塩は、この世界が神さまに反して汚れてしまったときに、清める働きをじす。

イエスは、この話を語る前に、心の貧しい人たち、悲しむ人たちのことを、幸いとよびました。そのような一人一人に、あなたがたは地の塩である、といわれたのです。それは、自分の力だけでできることではありません。

たとえ心が貧しく、何もできない存在であろうとも、神さまは「あなたがたは、かけがえのない存在」と呼んでくださり、「あなたがたは地の塩だ」とよんでくださるのです。「地の塩になるように努力しなさい」ではないのです。

もうすでに、あなたがたは地の塩だ、と宣言してくださっているのです。そして、あなたがたは、と呼んでくださっています。

あなた一人で、地の塩になりなさいとは、いっていません。いつも、助けてくれる人たちがいるのです。傍らにいて、手をにぎってくださる人がいるのです。そうして、はじめて塩は社会にとけこんでゆき、社会を清める働きをするのです。

自分で塩気をつけようと、必死になる必要はないと思います。神さまがわたしたちを愛してくださり、神さまの子どもとしてくださり、神の子らしさの塩気をつけてくださいました。塩気がなくなるとは、神さまの価値観、御心を忘れる時です。神さまの御心とは、一人一人が神さまに愛されている大切な神さまの子どもだ、ということです。

神さまは最高の芸術家です。私たち一人一人を手抜きせず、愛をこめて丁寧に創られました。神さまに失敗作はないのです。私たちは、神さまに「よくも私を、こんなふうに創ったのに赦さない」とはいわなくてよいのです。「私をこのようにして作ってくださって感謝します」と喜んでいいのです。

 

★神は光である

さて、ヨハネ福音書8章12節によれば、イエスは「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ。」と言われました。わたしたちが光となるためには、神さまの愛という光を、まず受ける必要があります。自分は神さまに愛されている「かけがえのない大切な存在なんだ。神さまの子どもなんだ」と確信してよいのです。人間は、神さまの愛の光をたっぷりあびて、はじめて輝くことができます。私たちは、イエスに会う前までは福音を知りませんでした。律法をしっかり守り、神さまに認められるために必死でした。パウロは、「だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。」と表現しています。古い自分とは、自分の殻にとじこもり、「私は絶対に赦されない人間なんだ」と思い込んでいる状態です。新しい自分とは、「弱い不完全な私でも、十字架のあがないよって、赦される存在なんだ」という神さまの愛を信頼し、ゆだねて生きられることです。もう自分自身を責める必要はなくなったのです。

 

あなたがたは世の光だ

あなたがたは世の光である。これを聞いていたのは、弟子たちの周りに、群衆がいたと

5章1節に書かれています。もしかすると、子どももいたかもしれません。ご高齢の方もいたかもしれません。病気を抱えていた人もいたでしょう。群衆ですから、多種多様な人の集まりであったことでしょう。そんな人たちに向かって、イエスは世の光と呼んでくださったのです。

 それは、どんな人にも神さまの使命があり、どんな人も神さまは必要としておられる、ということです。「自分なんてつまらない人間なんだ。生きる意味はないんだ」と言う人に、「あなたがたには希望がある。あなたには、確かに生きる意味がある」ということです。

 「イエス様、私たちは世の光ではないですよ。ほら、全然光っていないですよ」。そう思った人もいたかもしれません。しかし、イエスは「あなたがたは世の光だ」というのです。私たちが輝くことができるのは、神さまの愛をうけて、ありのままの自分を精いっぱい生きているときです。自分を実際より、よくみせようと思ったり、自分以上の自分を演じる必要はないのです。ありのままの自分の輝きを、イエスは世の光としてくださるのです。

 そして、「あなたの光」といっていません。「あなたがた」といっています。私たちは一人ではないのです。どんな時も、助け合って、協力してくれる人がいる、ということです。もし自分の光が消えそうなとき、弱ってしまう時があります。そんなときは、サポートしてくれる人がいるのです。優しい光で、照らしてもらえばいいのです。

 

★立派な行いとは

立派な行いとは、イエスが実践していたことは、罪びとたちの傍らにたち、病者の悩みを聞き、一人一人の神さまに造られた命を大切にする、ということだと思います。最も大切な掟は、神を愛し隣人を自分のように愛することだと言われました。かけがえのない命を大切にしあうとき、天のお父さんは喜んでくださるのです。

 イエスは、隣人を自分のように愛しなさい、と言われました。自分のように、となぜ言ったのでしょうか。ただ隣人を愛せよではなかったのです。イエスは、レビ記19章18節

隣人を自分のように愛しなさい」

を引用されました。なぜ、自分のように、という言葉がつくのでしょうか。それは、人間は自分を大切にしないかぎり、他人を大切にすることができないからです。いつも、自分自身にネガティブな態度でいたら、自分を嫌っていたら、その苛立ちや不安の矛先は、他人への攻撃として向かっていきます。不安や焦りは、「今の自分では駄目だ。もっと優れた人間でなければ生きる価値がない」という、闇を生み出してしまいます。しかし、現実はどんなにがんばっても、克服できない罪深さや弱さがあります。聖書を学び、きよらかな正しい生活をしたいと思っても、人間ですから限界にぶつかります。しかしそのときに、反省することは大切ですが「こんな自分は愛されるはずはない」というのは、大きな誤解であると思います。

神さまは、私たちも、ありのままの姿で受け入れてくださり、愛してくださいます。「こんな私は愛されるはずはない」というのは、神さまの愛の過小評価であり、誤解であると思います。「私は愛されている」と幼子のように疑わず、天のお父さんの愛を信じてよいのです。

「あなたがたは世の光だ。あなたがたは、もはや闇ではなく、神さまに愛されたかけがえのない大切な神の子どもだ」。

イエスは、きっとそう言いたかったに違いありません。イエスはどこまでも、神さまに造られた人間の価値を認め、人を信頼していました。幼子であっても、ご高齢であっても、一人一人は神さまの大切な子どもです。それを聞いた群衆たちは、おそらくほほえんだのではないでしょうか。今まで誰からも、そんな嬉しい言葉をかけてもらわなかったのかもしれません。喜びの涙を流した人もいたかもしれません。世の光として、ありのままに輝いて神の栄光をたたえることができるのです。

 

 


2021年7月

信じる力(マタイ7・15~17)

 

「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。 あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。 すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。

マタイによる福音書 7:15‭-‬17 新共同訳

 

★偽預言者

偽預言者とは、どんな預言者なのでしょうか。エレミヤ書23章16節では

「万軍の主はこう言われる。お前たちに預言する預言者たちの/言葉を聞いてはならない。彼らはお前たちに空しい望みを抱かせ/主の口の言葉ではなく、自分の心の幻を語る。」

と書いてあります。偽預言者は、神さまの言葉ではなく、自分の幻の言葉を語る、というのです。神さまを思うといいながら、自分の考え、固定観念に執着していたのです。

ペトロの手紙2の2章1節~2節では次のように書いてあります。

「かつて、民の中に偽預言者がいました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れるにちがいありません。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否しました。自分の身に速やかな滅びを招いており、しかも、多くの人が彼らのみだらな楽しみを見倣っています。彼らのために真理の道はそしられるのです。」

ペトロは、自分たちを贖ってくださった主を否定している、と言っています。イエスは、私たちを十字架の贖いによって「あなたを赦す」と約束してくださいました。自分たちを贖ってくださった主を否定するとは、イエスの贖いを不完全なものだとみていたのでしょう。これは、私たちの暮らしでも、そのような危険性があります。

 

★努力

第一に、努力によって救われる、という考え方です。必死に努力をして、神さまに良い子に認められることによってはじめて、救われるという考え方です。イエスにあう前のパウロが、この生き方をしていました。律法という宗教の掟をしっかり守れるものが、神さまに救われるのです。

 

★あきらめ

第二に、最初からあきらめてしまう、という考え方です。神さまの愛は不完全だから、「私は、赦されない存在なんだ」と最初からあきらめてしまうのです。神さまがどんなに、あなたを赦そうといっても、心をひらくことはありません。現在でも、他人は赦せても自分を赦せない人というのは、多いのではないでしょうか。

偽預言者とは、そのように自分の幻に頼り、主の贖いを否定するものだったのでしょう。こんな時代だからこそ、イエスの赦しを、複雑にしてはならないと思います。私たちは、「あれもこれもしなければならない」と複雑にさせてしまうのです。「あれもこれもしなければ救われない」と、思い煩ってしまうのです。

 

★福音

しかし、福音は、幼子にもわかるものです。マタイによる福音書では、11章25節で

「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」

と、イエスは言いました。幼子のような者にこそ、福音は知らされたのです。それは、複雑なものではありません。イエスは「あなたの罪は赦された」といってくださる方なのです。イエスを救い主と信ずる者にはだれも、その救いからもれることはない、ということです。とてもシンプルです。十字架の前にたつときに、それはとてもシンプルなのです。イエス様は、福音を難解にしませんでした。誰もがわかるような教えにされたのです。

私たちは今日、「自分は神さまに愛されている。赦されている」ということを、改めて強く感じてよいのです。福音書を読みますと、新しい発見がたくさんあります。私たちは、幼子のようなものになって、そのイエスの愛の前で驚かされるのです。どんなに絶望して、さすがにこの失敗は赦されないだろうと落胆しているときに、「恐れるな。あなたは、かけがえのない大切な存在。私はあなたを赦す」と慰めてくださる方がいるのです。それが、幼子のような者たちに示された、イエスの福音です。「あれもこれもしなければ」と複雑にならなくていいのです。神さまは、自分にちょうどいい荷物を与えて下さいます。それを両肩で背負って、ゆっくり歩いていけばいいのです。ちょっと重たすぎるな、と感じたならば、荷物を減らしてもよいのです。祈りの中で、神さまと相談して、一つ一つのことを決めていけばよいのです。神さまは、必ず祈りにこたえてくださいます。

ゆっくり歩くと見えてくる景色が変わります。また、人生は立ち止まってしまうこともあります。すると、道端に咲いている花に気づくことがあります。焦って前へ進もうとしていた時には気づかなかった景色を、神さまは見せてくださるのです。花は、とても美しく咲いています。鳥のさえずりも聞こえてきます。神さまは、一人一人に、最善な方向に導いてくださっています。そして、どんなときも一番いい道を準備してくださるのです。神さまの造ってくださる道に失敗はないのです。ですから安心して、「今の自分で大丈夫なんだ。これからも、神さまは導いてくださるから、大丈夫なんだ」と確信してよいのです。

 

★良い実とは

さて、マタイ7章17節では

「すべて良い木は良い実を結び、

悪い木は悪い実を結ぶ。」

とイエスは言います。良い実とはなんでしょう。ヨハネ福音書15章4節では

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」

とあります。ただ、神さまの愛を信頼し、つながっているときに良い実を結ぶことができるのです。良い実とは、神さまが喜ぶ愛の実です。私たちが、互いに愛し合い、赦し合い、助け合うとき、天のお父さんは喜んでくださるのです。

神さまにつながるとは、「神さまの愛」を信頼することです。「このぶどうの木は信頼できない」と疑わなくて大丈夫です。ちゃんと自分を守ってくださっている、これからも大丈夫なんだ、と安心して委ねられるのです。

キリストのぶどうの木は、どんな嵐がふこうとも、倒れることはありません。神さまにつながるとは、「神につくられた身の丈でいい」ということです。安心して、今日の自分でいられることです。私たちの今日のままで、ありのままの全てを神さまにみせてよいのです。

野の花を神さまは、美しく装ってくださっています。それぞれの色をもち、自分らしく花を咲かせています。ひまわりはひまわりのように、アジサイはアジサイのように咲いています。私たちも、一人一人違います。神さまの使命も違います。そこに、優劣はないのです。自分に与えられた役割を精一杯いきるとき、私たちの命は美しく輝くのです。

考え方が違うからと言って、妥協しなくてよいのです。また、自分を押し付けたりしなくてよいのです。それぞれの良さを保ちながら、私たちができることは、助け合うことだけです。考え方の違う人との出会いは、成長と学びの時です。どんな出会いも、無駄な出会いはありません。

 

★土台とは

 良い実はキリストにつながるときに実るように、私たちの信仰の土台は、イエス・キリストです。キリストが岩のような土台になってくださり、その上に私たちの生活や営みを築く時、どんな困難がおそっても、不幸な困難ではなく幸せな困難にかわるのです。

 山上の説教は、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」からはじまっています。心の貧しい人々とは、自分の中に、なにも頼る者がないことを知っている人です。しかし、人間は、自分にはまだやれる、自分は有能だと思い込んでしまう傾向があります。心の貧しい人よりも、自分を優秀にみせかけてしまうことがあります。仮面をかぶってしまうのです。しかし、神さまの前で仮面をはずして、自分の心をみせてよいのです。どんなに心が汚れていようとも、天のお父さんは私たちの罪を赦してくださるのです。

必死に、自分の土台を築こうとしなくてよいのです。私たちが、セカセカする前に神様は、しっかりとした土台を、すでに築いてくださっています。神さまの土台は、子どもたちが安心して遊べる、公園のようなものです。そこでは、天のお父さんに見守られて、安心して遊ぶことができる場所です。私たちの生活は、その土台の上にあるのです。だから、どんなときも絶望しなくてよいのです。「私は神さまに愛されている、大切な神さまの子ども」と確信してよいのです。